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My Foolish Heart

和田城志著『剣沢幻思視行~山恋の記』

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 人生を導くことになる憧れ、拘り続け探究しようとするものが人には多少なりともあると思う。それが命がけで取り組まないとならないものであるのが、アルピニストなのである。
 本書は、著者を魅了し続けた剣沢大滝登山史として読むことができる。1962年鵬翔山岳会により途中登られ、京大山岳部が大滝完登となったが、剣沢を遡行したわけでなく、著者が1976年に十字峡より分水嶺の別山乗越まで初遡行する。そして1970年にはついに積雪期の剣沢大滝を登る。その後、ヒマラヤに目標を置き、ランタン・リルン、カンチェンジュンガ縦走、マッシャーブルムとブロード・ピーク、ナンガ・パルバットへの3度の挑戦。
ナンガ・パルバットの困難さを説明している。「黒部もナンガ・パルバットも登山の恐怖(もしくは魅力?)を雪崩に代表させているということだ。・・・・どの面から登っても、雪崩のリスクが非常に大きいものばかりだ。」 
 また本書は探検とは何か、アルピニズムとは何か、を多くの体験を通して、克明に語られている。
「かつて、社会人山岳会の過激なクライマーたちが言ったように、「冬の屏風岩を登れないような奴にヒマラヤはおこがましい」はまったく正しい意見だ。しかし当時の私は、そういう登山界の流れを理解しつつも、その歴然とした力量の差の前に、未踏峰の値札ばかりが色褪せてぶら下がっている山々を物色していた。」未踏峰のみに登山の価値があると思っていた当時のことを悔やみ、「一度ナンガ・パルバットで足慣らしをして、崑崙の未踏峰をソロクライムするような登り方がスマートだ。」と真のパイオニアワークについて述べている。
 私が面白いと思ったのは、クライマーと沢屋との違いについて著者が説明していることだった。
「幻の大滝は未だ完全な姿を見せていない、と考える人々がいる。沢屋だ。登山道や岩壁の既成ルートは、できてしまえば変化な少ないし、後続する登山者には初登攀者と同じ感動はありえない。沢登りは違うと考えた。沢は流転する水の流れに、ひとときもとどまらず、常に同じものはない。山頂が盤石な岩の造形であるなら、渓谷は変幻自在な動態そのものである。・・・・・・沢屋は未知を、クライマーは困難を重視しながら対象を分析する。沢屋は動態の中に未知が内在すると考え、クライマーは造形の中に無限の困難が創作できると考える。」とあり、大滝を目指す者の心の奥の気持ちを考察している。
 その後、事故により膝に障害を抱える身になりながらも、黒部別山トサカ尾根より八ツ峰Ⅴ峰菱ノ稜を登り、登山を退くまで果敢に剱岳に拘った。
 「激しいアルピニズム渇望は静かに山旅放浪に変わりつつあるのかもしれない。しかし、これも新たな思い出作りの始まりだと言える。思い出に酔う時間はもう少ないけれど、出会い、恋し愛して、狂う世界が、どこかで私を待っているような気がしている。」
 ガストン・レビュファの「ぼくは思い出より憧れが好きだ」のごとく、著者はいつまでも情熱の人なのだと思う。
読み終えて、感動を覚えるのは、アルピニズムの奥深い内容と共に、山は私の人生そのものだ、と語る想いが胸に響いてくるからだ。私は気が付けば山に始まり、クライミング擬きをしてもう長い年月が経とうとしている。著者のようにいつまでも情熱の絶えない人でいたいと思った。

 
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by mizunoawa921 | 2015-12-30 12:11 | 雑記 | Comments(0)
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